サバイバーたちの夏
「自家中毒」というキーワードを知っていますか?広辞苑を引いたら該当する言葉はないようです。これは医療関係者だけに通用する言葉でしょう。幼児期に突然、嘔吐下痢を繰り返してぐったりし、脱水になったり、栄養失調になったりします。あるサバイバーは、幼稚園の頃に顔を腫らして言っても誰も気づいてくれず、友達に「親が殴るんだ」と言ったら、「じぶんちなんかもっとひどいぞ」と言うので、どこの家も親は殴るのだと思ったそうです。4歳の時「自家中毒に」なって寝たり起きたりで、幼稚園を一年間休んでいたと話しました。一年間も休む自家中毒とは、どんな状態だったのでしょうか?それを聞いて、あ〜、そうだったのか、昔、病院で看護師をしていた時の光景を思い出しました。小児科には時々「自家中毒」で入院してくる子どもがいて、看護師が大きな針で大腿部に点滴をしていました。点滴した後は腫れるので、温湿布などしてあげました。昭和40年代のことです。サバイバーの幼児期もちょうど40年代で、その頃は誰も児童虐待なんて気づかずに、点滴注射して終わりだったのでしょう。子どもは虐待の被害症状を「自家中毒」という病気になって表現することもあるのですね。今の子どもたちはどうなのでしょうか?「自家中毒」という医学用語が残っているのかわかりませんが、サバイバーの生育歴を聴取したりしながら、昔のナース服姿がフラッシュバックしてきました。
児童虐待が社会的に顕在化するようになったのは、昭和の終わりから平成の初めです。“誰も知らない”という映画がありますが、あれは東京の巣鴨で起こった実話で昭和63年の事件です。母親は自宅分娩で戸籍も出さずに、子どもを産んでいますが、10歳位の長男にお金だけ与えて妹や弟たちの面倒をみさせ、自分は愛人の家に行きっぱなし、そのうちにアパートが近所の子どもたちのたまり場になって、幼い妹が長男とその友人のいじめにあい亡くなり、死体を友人たちと捨てに行って“ネグレクト”が発覚したというものです。この事件には東京都の児童相談所が関与しているようです。長男は教護院に措置され、母親には執行猶予がついて、子どもたちとの生活ができるようにはなりました。
今、30〜40代の虐待を受けてきたサバイバーは、昭和40年代に乳幼児期・学童期を過ごしています。昭和40〜50年代は、日本には“児童虐待”というキーワードさえ存在しておらず、殴られていても、「死ね」「いなくなれ」など心理的虐待を受けていても、小学生の兄妹2人だけでアパートに出され、食事もカップラーメンだけ、しつけや愛情を受けずに育っていても、誰も周りは虐待を受けていることを分からず、関与せず、誰も知らないというなかで生き延びてきたのだなというのを実感しています。
過酷な虐待環境を生き抜いて私の相談室に辿り着いたクライアントには「よく生き抜いてきましたね」、「アルコールに依存したり」、「嫌な言葉や出来事は記憶から消し去るようにしたり」、「感情を麻痺させたりしてしか生き延びられなかったんだね」、「あなたは“サバイバー”だよ」と伝えます。今日一日を生き抜いていく、サバイバーの夏は過酷です。