今から16年前の2月末のことだった。当時ぼくは埼玉県立精神保健総合センターのアルコール病棟に勤務していた。家庭訪問から帰って来た時に何か変だと感じ、鏡の前に立った。そこに映っていたぼくの顔は左半分が麻痺していた。すぐに医局に行くとN医師が診察してくれた。その診断は三叉神経麻痺だった。「中枢神経麻痺ではなく、抹消神経麻痺だが、すぐに神経内科に行ったほうがいい」と助言され、紹介状を書いてくれた。お蔭で神経内科医も驚くほど奇跡的な速さで回復できた。だが4月の人事異動でぼくは保健所勤務を命じられた。

 それまでセルフケアには取り組んでいると自負していたのだが、既にぼくは52歳になっていたし、この出来事はそれ以上のセルフケアが必要だということを意味した。テニスは15歳から続けていたし酒もタバコもやらず、フィジカルケアはそれなりにしているとしても、問題はメンタルケアだ。メンタルケアの三本柱は、カウンセリングと相互援助グループのミーティングとスーパービジョンだと常々考えていた。相互援助グループのミーティングには40歳の頃から週2回ペースで参加しているし、スーパービジョンもその折々には受けていた。だが、自分のためのカウンセリングだけは受けていなかった。

 そんな時、ぼくにカウンセリングを受ける機会が与えられた。そして保健所勤務と並行してカウンセリングルームにも通うようになった。その頃のぼくは自分に出来ることは自分でやり、自分に出来ないことも自分でやろうとしていた。だから自分にできないことを人に頼むことが健康なことだとは考えてもいなかった。しかし自分がカウンセリングを受け、自分自身の抱えて来た問題を整理してゆくうちに、「助けて!」と言えない自分に気づかされた。確かに児童相談所にいた頃は常時120ケースが自分の担当になっていたし、保健所では32万人口の精神保健福祉相談の窓口にもなっていたので、燃え尽きるのは時間の問題だった。いつも思っていたことは「自分の身の丈で仕事がしたい」ということだった。

 「このままでは自分が駄目になってしまう」そう思って公務員を辞める決断をした。今でもあの決断は間違っていなかったと思っているし、後悔もしていない。それまでの27年間は、ぼくが自立するために用意されていた時間だったのだ。小さな相談室を開いたものの、初めの頃は心もとない足取りだった。しかし大勢の方々に支えられてここまで歩き続けることが出来た。
 カウンセリングは3年半で終結したが、相互援助グループのミーティングには今も通っている。スーパービジョンは二人の先生にお願いしたが、その一人がなだいなだ先生である。先生から受けた指導の一部は、中央法規からこの春出版した『《治らない》の意味』に載っているので、関心のある方には読んでいただきたい。フィジカルケアの方には、二週間に一度2時間のアロマセラピーを加えた。全身のマッサージを定期的に受けることで、三叉神経麻痺の再発はなく予防にもなっている。また3年半ほど前からは柔道も始め、5月末に初段の試験に合格したので、いよいよ黒帯なる。

 統計を見ていただくと分かるように、この相談室の特色は依存症の相談が多いことである。「依存対象に囚われて社会生活が破綻すれば依存症」とぼくは考えている。だから日常生活のあらゆるものが依存対象になる。中でも一番巧妙で不可解で強力な依存症が共依存症である。この依存症の場合は、共依存症者自身も相手も共にスリップしていることに気づきにくい。「共依存症者は人から必要とされることを必要とする」と言われているが、それは人から必要とされないと自分には価値がないと思っているからである。ぼくもそう思って来た。しかし回復プログラムに取り組むようになってからは、ぼくを必要とする人がいるかも知れないし、いないかも知れない。「別に…」と言う人だっているだろう。人から必要とされなくても、自分が自分を必要とすればそれでいいのだと思うようになった。

 カウンセリングにもそれと似たところがある。必要とする人がいるかも知れないし、いないかも知れない。「別に…」と言う人だっている筈だ。カウンセリングのゴールは、当初クライエントが必要としたカウンセリングが必要としなくなることである。そうなることをぼくは望んでいるし、必要としなくなったからといってぼくには価値がないとは思わない。今の仕事量は自分の身の丈だと思っているし、生涯現役を続けられたら最高だ。
 人間が成長する過程で「依存」は必要なものである。だが少なすぎる依存も問題だし、多すぎる依存も問題である。健康的な依存のことを相互依存(インターディペンデンス)と呼んでいるが、互いが自立した対等の関係の中で適度な依存ができれば、人生の味も一味違ってくるだろう。

2013年6月 吉岡 隆

◆リカバリー15年の統計はこちらから

◆リカバリー15年の統計はこちらから