
依存症は依存対象に囚われて生活が破綻してしまう病気である。アルコールに囚われて生活が破綻してしまえばアルコール依存症だし、ギャンブルに囚われて生活が破綻してしまえばギャンブル依存症である。この病気に治癒はないが、回復はできると言われている。
ぼくも依存対象に囚われて生活が破綻してしまう病気をいくつか持っているので、まちがいなく依存症者である。その依存対象のひとつが魚である。「魚依存症」というのは耳慣れない依存症だが、ぼくたちの周りにあるどんな対象も依存対象になりうるので、魚依存症者がいてもおかしくはない。「そう言えばあの人も…」という人が、あなたの周りにもいないだろうか。
ぼくが自分のことを「魚依存症かも知れない」と思ったエピソードがいくつかある。もう20年近く前になるが、家族で海水浴に行った時のことだった。ぼくは小学生の息子と岩場で潜って、魚や貝を捕ることに夢中になっていた。息子の泳ぎの異変に気がついたのは、砂浜からぼくたちを見ていたカミさんだった。そばにいたのに、ぼくは全く気づいていなかった。「子どもが溺れかけているというのに!」と飛んできたカミさんに、ぼくはこっぴどく怒られた。反論の余地はなく、ぼくが子どものようにうなだれていた。
児童相談所にいた頃、ぼくはそこの運転手さんから投網の打ち方を教えてもらった。彼は昔、漁師になる夢を持っていた人で、タバコをくわえながら児童相談所の庭で「こうやりゃいいのさ」と投網を打って見せてくれた。彼がふわっと投げた網は、きれいに開いて落ちるので、ぼくも真似をするのだが、何度やってもぼくの打った網は開かないままドスンと地面に落ちるだけだった。実際に川に行って、ぼくはひとりで投網の練習をした。
一網打尽という言葉があるが、魚のいそうな場所を狙って打った投網がきれいに開けば、もうこっちのものである。取り込みさえ慎重にやれば、網を手元に引くにしたがって、網の中にキラキラ光る魚の姿を目にできる。しかし打った投網が開かなければ、単に魚を追い散らしているにすぎない。開かないまま網がサブンと川面を叩けば、数時間魚はその場に戻ってはこないからだ。友人たちとある川に行った時、「ここで投網をしてはいけません」という立て札が立っていた。ぼくの病気がその立て札を無視し、投網を打つと、近くで農作業をしていた人が「こら!警察に通報するぞ!」と大声で叫んだ。もっとやりたい気持ちと罪悪感がその瞬間交錯した。その頃からだろうか、「魚依存症」の自己診断は疑いの段階から確定に近づいていった。それでも投網を打ち続けていたら、ある日川底の障害物に投網が引っ掛かってしまった。どうやっても外れないので、無理に引っ張ったらズタズタに破け、修復不能の状態になった。これこそ「底つき」だとぼくは思った。しかしその場に捨ててくるわけにはゆかないので、ひとまず自宅に持ち帰った。
翌週の日曜日、庭先で朝日を浴びながら修復不能の筈の投網に、タコ糸と針で挑戦している男がいた。「えっ!誰が魚依存症なの?」なんて言いながら…。彼の頭の中では、すでにウグイやオイカワやカマツカが泳いでいるのだろうか。
2004.3(吉岡 隆)